自然観察と「森づくり」は共存しない?
「キレイに」なりすぎて、自然が損なわれた感がします。
「ここは自宅の庭ではないんだけどなあ」「住みにくくなる生きもののことは考えないのかなあ」

自分たち(人間)の好みを優先して、伐採・整備した樹林を歓迎するのは自分たち(人間)だけ。例えば、森の分解者である菌類は乾燥が苦手、菌類が衰退すれば他の生物たちの遺体や排泄物を処理する森の力が弱まります。水や太陽や大気と同様に大切な、土壌の形成が衰えます。そんなことも考えての上での「森づくり」活動なのでしょうか。


名古屋市の管理部署に意見を述べたとき、「市が確認した計画に沿って行われているので、問題ないと考えています」との回答でした。問題は計画通りかどうかではなく、その計画自体なんですけど。
野鳥の食糧や隠れ場を刈りとって奪い、一方で「不必要かつ過剰」な数の巣箱の設置など納得いくものではありません。参考記事:こちら

私たちは誰かが壊した後の自然の復活を観て喜んでいる存在ではありません。人間によって「これでもか!」と自然破壊し尽くして成立した都会の中に、わずかに残った生きものたちの根拠地を大事にし、(できれば)広げたいと願っています。そう考える人びとが広がることを目指しています。参考記事:こちら

「相生山の四季を歩く会」の2月例会のテーマは「樹木の冬芽と葉痕の観察」を通して、「みんなが注目する花や果実、を準備する植物のしくみを学ぶ」ことでした。「キレイに」刈り払われてしまった冬芽たち。「森づくり」の手の及ばない区画を探して、自然観察するって、これはもう自然観察ではないと残念でなりません。
by Oak.


