春。相生山緑地の森の林縁では、フジ(藤)やクズ(葛)などが盛んに蔓(ツル)を伸ばしています。最近はアケビ(木通)
こちら も目立っています。画像は昨年夏、フジとクズの花です。

人は彼らを衣類の原材料や薬用に用いたりしてきました。現代の人は「花がきれい」とか「森を荒らすジャマ者」とか「懐かしい味」とか、時と場合、経験などにより、さまざまに評価しています。
森林の生態系を学ぶと、「ソデ(袖)・マント群落」として「森林の内部を乾燥や侵入者から守る役割を果たしている」位置づけに出会います。自然の一部を自然全体から見た役割で判断すると、そういうことも言えるのでしょう。
けれども、フジやクズやアケビは、当然そんなことを意識して生きているわけではありません。彼らは長い生育史のなかで、環境に合わせて生き延びる「戦略」を獲得し、そうしたものだけが現在も生き残っているに過ぎないのだと思います。
さらに、人の生活圏では、珍重されたり排除されたりの圧力も加わったうえで、現在の植生が成立しているともいえるでしょう。
相生山の雑木林 話を相生山をとりまいている情況に移しましょう。
相生山の樹林も例外ではありません。主な産業が農業であった時代が長く、農用林として人から利用されてきました。窯跡があることから、焼き物の燃料供給していたことも推測されます。
けれども少し前から、人はそうした役割を相生山の樹林に求めなくなりました。このような経緯で成立したのが、現在のコナラ・アベマキ中心の雑木林です。人が圧力を加えることを止め、自然のままに放置した区域は、暖帯性の常緑樹林(=照葉樹林)へと遷移しつつあります。日照が少なくても育つ、シイ(椎)やカシ(樫)が中心の森が成立し始めています。
相生山に生育するシイ(椎)の幼木 
常緑樹林への遷移 こうしたことは、当たり前の成り行きです。正しいとか良くないとか、大変なことになったとか、人の分際で判断出来ることではありません。成るようにしか成らない、と素直に認めるしかないのです。
そのことと、人が「ああしたい、こうしたい」「その方が好き」「こうであって欲しい」と願うことを交ぜこぜにして論議することが流行っています。あげくの果てに、力まかせに自然を改変し、「真実」ぶった理屈をつけるのは、愚かさを地で行く行為としか思えません。
拡大する伐採地 たとえば「生物多様性のために雑木林を維持しなければならないから常緑樹を伐採」とか「昔の姿を取り戻すため手を入れる」「里山の景観を維持することが求められている」など、一部の人の好みを正当化するための言い訳でしかないと聞こえます。
本当はおのれの好みであることを白状し、別の好みの人びとに理解を求め、折り合いをつけようとするのが、まだ真っ当な進め方ではないかと思ってしまいます。
「あなた方は相生山をどうしたいの?」と聞かれることがあります。「どうこうしようとする前に、何が大事か考えたい」と答えることにしています。為そうとしている人の行為そのものが、どうしても不可避なことなのか。
それから「生物多様性を語るなら、人びとの意見の多様性にも考慮して」ですよね。
相生山緑地ですすめられてきた、ここ2~3年特に顕著になってきた「森の手入れ(=庭づくり)」活動に、同時に「人と自然の共生」を掲げて「世界のAIOIYAMA公園」を夢想する行政に、相生山に親しんできた多くの市民の思いを代表して警告を記しておきます。「自然を意のままに出来るなどと、驕ってはいけない」と。 下は、私たちがもう一つのフィールドにしている岐阜県の山林です。ここでは30年以上放置されてきたヒノキの人工林を間伐(一部皆伐)して、自然植生中心の山に戻そうとしています。もちろん、数百年、数千年単位で考えれば、放置人工林も死滅し自然林に入れ替わっていくことでしょう。それでもあえて、植えられて育ったヒノキをなぜ伐るのか。

それは、人が今、何をする必要があるのか、の問題提起になりはしないかと思うからです。世間の風潮が、責任を転嫁して趣味に走り、それで事足りると、むしろ「良いことをしている」と思いこまされていることへの、小さな小さな反発なのかもしれません。
さて、どちらの行為が、自然に受け入れられるのか。それともやっぱり、自然は人の思わくなど超えて存在していくのか。実践結果を通して後世に問題提起が伝わるならば、それはそれで楽しいことだと思っています。
by Oak.
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