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戦後、まだ森の樹木を燃料などとして利用していたころの相生山の様子はどうだったのでしょうか。
今年7月
「オアシスの森の再生プロジェクトについて(2)」において、{ 戦後、例えば徳林寺の北(現在学童保育所がある付近)には、およそ0.2ヘクタールほどのマツ林。野並集落の高台の部分にも、高木のマツがまばらに生えていました。} と書きましたが、以下の写真がそれにあたります。
【徳林寺北側のクロマツ林(昭和35年頃)】

【野並のクロマツ疎林】

かやぶき屋根が見当たらないので、昭和30年以降と思われる。
前編(3)昭和12年の地形図の
青色で囲った部分が写っている。
地形図中の
青色→はカメラのある方向で、天白川近く(西)から
野並方面(東)を写す。写真のさらに東奥側(写真外)が相生山南部。
これらの写真から、野並近辺に残されたマツ(=クロマツ)のようすを想像していただけると思います。なお、クロマツと断定しているのは、私が実際にそれらのマツを見ているからです。
前編(2)の明治24年の地形図では全体に広がっていたマツの疎林が、戦後は一部だけが残された状態になっています。それがクロマツであったことから、おそらく明治のマツもクロマツであったと想像されます。
また、野並近辺のマツの疎らな写真からは、
「尾張名所図会」当時の自然の様子(特にマツの疎林と植生)をリアルに感じさせてくれます。
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私たちの記憶に残る、戦後のマツ林の分布を地形図で見てみましょう。
【昭和28年の地形図】

この菅田地区中心の地形図では、
マツ(緑の△)はほとんど見られません。菅田・島田方面から相生山緑地方面の視界は、
赤色の線=尾根筋の範囲内に限られます。
菅田や島田の人たちの「記憶」は戦後のものと思われますが、庭や人家近くのマツ以外にオアシスの森方面にマツ林を見ることは出来なかったはずなのです。
住民の見た風景は次の写真のような、人の背丈に届かないような低木と草本が生えた
禿山(オレンジ部分)に
畑(黄色で囲んだ部分)が混ざったものであったと思われます。
【昭和35年頃の相生山南部の風景】

もしマツ林を見ているとすれば、燃料革命後にマツの稚樹(主にアイグロマツ?)が成長をしたもので、前の写真【徳林寺北側のマツ林】にあるクロマツ林よりもずっと貧弱なものでしょう。
【昭和36年の一つ山周辺】 手前の池は新池、右端は海老山、中央右奥が久方

その貧弱なマツ林は、昭和31年になってもまだ禿山状況を呈していた場所に昭和40年以降から短期間に成長出現し、その後まもなくマツクイムシや火事のためにほとんどが枯死してしまったものと思われます。
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こうして考察を重ねてきますと、
名古屋市が新しく設置した看板に書かれているようなアカマツ林は、江戸末期から現在に至るまで、おそらくひと時も存在しなかったと思われます。
今ある自然は、微妙なバランスの上に成立しています。
気温、降水量、地質・地形、遺伝子的環境を含む周辺の状況(例えば田園、市街地、森林、そこに生息する生物)、人の関与などの物理的状況、それらに影響された土壌の変化、菌類の変化、土壌生物の変化などなど、あげればきりがないほど多様な因子の相互作用によって成り立っています。
ですから、少しでもバランスに変化があれば、自然も形を変えます。
よって、自然を私たちの手で意のままに作り変えることは出来ないと思います。
過去の植生の状況をすら把握する努力もせずに、
「アカマツ林再生プロジェクト」を実施 しても、計画された目標が達成される可能性は限りなく低いと言わざるを得ません。
たとえ、過去の状況把握や手入れ後の予測をそれなりに行ったとしても、目標が達成されることはほとんどないのですから。

「アカマツ林再生プロジェクト」は、今あるオアシスの森の自然を壊し、あたかも
マツとツツジの庭園づくりをしているかのように映ります。しかし、自然豊かなオアシスの森で、『庭園づくり』とは言いにくいのでしょう。
存在しなかったゆえ、記憶に残るはずがないアカマツ林。
それを再生するかのような表現は捏造されたもので不適切です。
行政は市民に事実と異なったことを説明すべきではありません。
善良な市民は、間違った「植生遷移の歴史」を真実と思い込み、負の連鎖は広がるばかりです。
折角看板を書き換えるのでしたら、事実に基づいた表記をお願いしたいものです。
里山イニシアティブ、生物の多様性の劣化防止は愛知県・名古屋市の課題であり、また名古屋市は樹林地を残す施策を行っていると聞いています。
そうであるならば、その課題や方針に矛盾しない施策を、自然が豊かな相生山でこそ、実施すべきだと思うのです。
by てんてこマイマイ
theme : 名古屋・愛知
genre : 地域情報