「森の手入れ」を考える(3)
最初は
【主張1:人が森を利用・管理しなくなり、コナラ―アベマキの二次林で
常緑広葉樹が拡大している。燃料革命の前のように、木を伐って手入れ
をしてコナラ-アベマキ林を維持しなくてはいけない】
についてです。
昔はどうだったのか?・・・歴史的事実に照らして
昔を振り返ってみて、昭和30年代の燃料革命の前は、ミズナラやカシワ、コナラやアベマキ・クヌギの二次林が広がっていたのでしょうか?
それを維持するために、人は森の管理を行ってきたのでしょうか?
大方はそうではなかったと思います。
縄文時代から日本の森は山焼きなどですでに草原化したところもある、ということを聞いたこともありますが、よくわかりません。
戦国時代からは、用材確保、農業用肥料、燃料などに相当に収奪され、荒らされ、草原や松の疎林になっていったようです。
江戸時代のころの版画や絵画を見る機会があれば、その植生は何だろうかと考えてみてください。多くの場合、マツの疎林や禿山が描かれています。
たとえば尾張名所図解に描かれている絵には、マツが疎らに生えていて、大きく育った樹木はその疎らなマツ以外はそんなに見られません。地肌には萩や草本と思えるようなものが生えている絵が目立ちます。つまり有機物の多い土壌ではなく、やせた土壌にマツの疎林です。
これが、人が活動する地域・里山周辺の一般的な風景ではなかったでしょうか。

木曽の御留山(おとどめやま)についてはよく知られています。木曽五木についても同様です。
これは、戦国時代から江戸期の木材のオーバーユースによる資源枯渇から、資源回復(用材確保)やタカ(鷹)を守るために採られた対策です。
おかげで今日、木曽ヒノキは有名になっていますが、樹齢300-350年以上のものがないのは、当時既にほとんどのヒノキなどが伐られてしまっていたからなのです。
木曽一帯は、クリ帯に当たる場所も多く、愛知県のような照葉樹林帯と単純比較はできないかもしれません。
しかし、木曽での森の管理の歴史は「伐って育てた」のではなく「伐ることを規制して保護する」だったのでした。言われていることとは真逆の、伐ってはいけないとしていた事実があるのです。
次回では、愛知県辺りではどうだったのかを、考えていきます。
by てんてこマイマイ
画像は文とは直接関係ありません 今回は「相生山のススキ」緑地南部の崖地上で
