昨日、相生山緑地のいつもの園路を歩いていたら、景色が一変した場所ができていました。コナラ(小楢)の樹林の林床が広い範囲で露わになっていました。そのあたり一帯に育っていた常緑低木が一せいに伐られていました。

誰の仕業かは直ぐ察しがつきました。木を伐る高さ、伐った木の処理の仕方は見覚えがあります。果たして、ここから少し行った所にある名古屋市の掲示板に、活動団体の予定が貼られていて「柴刈り体験」とありました。

燃料や肥料にするため、「柴刈り」として山の木を伐っていた時代がありました。現代はその必要はなくなっています。なのに、なぜ「柴刈り」?
「人が山に入って木を伐って使わなくなったので、森は暗くなって荒れ、生物多様性は損なわれ、里山の景観は失われた。それを取り戻すために森の手入れをする」というのが、その理由のようです。
でも、人が木を伐らなくなったから荒れた?・・・・そうではなくて、人が伐らなくなったから、自然が戻ろうとしているのでないのですか!

自然が人の干渉を受けなくなって、本来の姿を示しているのに、いかにも「自然のために人が良いことをしている」というのは根本から間違っていると思います。人が生きていく為に、自然からいただく・・・食料や資源として、・・・現代ではリクレーション効果の為に「公園として整備させていただく」というのも含まれるかもしれません。それなら、科学的な根拠を示し、必要最低限、計画的に進めることや市民の合意形成が求められます。

ここに生きている植物や動物や菌類たちも互いに関連しあって、大きな循環の中で生きています。その時、その場限り、人の好みで、伐られたり残されたりでは堪ったものではものではないでしょう。これだけ裸地に近い状態になれば、一時的にせよ乾燥の影響は避けられないと思います。残されたものも生きていけるとは限りません。
「広い道がある」と踏み込む人によって、樹林地が減らされていきます。「新型コロナ」以降、初めて相生山を訪れる人びとは増え、森歩きの「初心者」、道迷いの人を多く見かけます。「森づくり」と言いながら、その対策は一切とられていません。

私は地肌が見える樹林は異常だと感じます。自然現象で裸地が現れるとしたら、火山の噴火や大雨などによる地崩れや洪水などでしかないでしょう。そこから自然はリセットされることを繰り返してきたと習いました。
伐り払うことで、きれいさっぱりして気持ちいい、と感じる人もいるかもしれません。一番多く伐られている常緑広葉樹のアラカシ(粗樫)やヒサカキ(姫榊)は、萌芽更新して数年すれば不自然な不格好な樹形に茂ります。返って「荒れた」景観を呼ぶでしょう。しかも、そうなるのが分かっていて、伐り続ける。その範囲をどんどん広げている。そのことを、私は異常だと思います。
伐られたら、いっそうのエネルギーで甦ろうとする、光合成で生き続けようとする、それが植物の自然な姿です。「景観」や「生物多様性」のためとして伐採に手を付けるなら、未来永劫ずっと続けていく覚悟と計画が要りましょう。

シンボルコナラの前の草地、私たちが昆虫や草本の自然観察をしていた区域、を更地にしている人が、昨日は樹林との境界の竹を伐っていました。どうも団体の活動とは別に進めているようです。
思い出しました。歩き始めてすぐ入り口付近で、何本か切った竹を持ち出そうとしていた数人に「ここで活動されている方ですか?」と声を掛けたら、最初は「はい」しかし慌てて「いや」と否定しました。不自然な「後ろめたさ」を態度から感じました。竹藪の持ち主でもない。ここで伐った竹を運んでいたのか、と思いました。だとしたら明らかなルール違反です。『持ち込まない、持ち出さない』はずですから。
もし公に咎められたら、「伐った竹を利用する」、新しい「里山づくり」とでも主張しますか。
相生山緑地で、自然と人はどう付き合っていけばいいのか。
相生山緑地計画検討会は答えを出せるでしょうか。
「森づくり」といいながら、実は「森壊し」を、名古屋市は容認しているようにしか見えません。
by R.62


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